「計画停電」異論~自由を手放したいひとたち(坂口孝則)

「計画停電」異論~自由を手放したいひとたち(坂口孝則)

・節電目標に政府の介入を期待するひとたち

東日本震災に端を発する計画停電について、あまりにも無自覚な発言が多いので一つ申し上げておきたい。それは、「計画停電については、政府が主導せよ」という種類の主張についてだ。

今年の夏季はマイナス25%ではなくマイナス15%の節電で済むのか、あるいはそれ以上それ以下になるのかはまだ予断を許さない。ただ、昨年と比べて限られた電力であることはたしかだ。この節電をどうやって成し遂げられるのか。テレビコメンテーターは皆口をそろえて、「政府(菅直人首相)がリーダーシップを発揮して、政府主導で各産業の稼働時間を調整すべきだ」という。

この手の話をする人にたいして、ほんとうに情けない、と私は思う。なぜ私がそう思うかといえば、

1.市場に政府の調整力を期待するのは異常であること(に無自覚であること)
2.政府主導の産業稼働計画は、計画経済復活にほかならないこと
3.市場に任せれば自発的な節電につながる(と理解されていないこと)

があげられるからである。詳しくこれから書いていく。私がなぜわざわざこの「情けない」人たちの話をするかといえば、より深い問題を抉り取ることができると考えるからだ。

自由に経済活動を行うことは各企業や各個人の権利であり、それを自ら政府に差し戻すべきではない。人びとが自由に経済活動を行うまでに、さまざまな努力が払われ、血が流されてきた(大袈裟だけれど)。その権利を返上することは反動にほかならない。

私の「思考停止ビジネス」で描いたのは、お客を思考停止させることによってモノを販売する「売り手たち」だけではなかった。あまりにもたくさんの商品に囲まれ、人生の選択肢も広がっているなか、むしろ、一人の消費者である私たちこそが「思考停止させてくれること」を求めているのではないか。これが、ほんとうのテーマだった。「思考停止ビジネス」では、私の意図を掴んでくれた人たちが感想をくれた。

大袈裟にいえば、これまでの国民国家の歴史は、自由獲得の歴史だった。王政や貴族政治の反動から、民衆は自分たちの権利を国政に反映できるよう民主主義を創り上げた。「人権」や「平等」といった考えもフランス革命を起点として「発明」されていった。人権思想は普遍的なものではなく、200年程度の歴史をもつものにすぎない。ただ、そのような民衆のロマンティシズムを政治制度にまで昇華させた民主主義国家は、国民の代表が国政を担うことで、民意の最適なる反映を試みた。

とはいえ、政府の役割は、さほど大きく期待されるものではない。アナルコキャピタリスト、無政府主義者は極端だとしても、できるだけ政府の役割を極小化し、民に任せることが基本である。なぜか。たとえ民衆の投票によって選択された政治家が国政を担うといっても、政府という存在自体が国民の自由を制限する可能性があるからだ。ワイマール共和国は完全な民主主義の国だったけれど、ナチスの独裁制を生み出した。抑圧された生活、制限された自由。民主的なプロセスによって、人びとは自ら不自由になる道を選択したのだ。

とくに経済活動などは、政府が介入するのではなく、民間(「市場メカニズム」といっても良いだろう)の自由競争と自由意思に任せるべきだろう。国や政府が特定産業に肩入れして産業育成を試みることがあるけれど、ほとんど上手くいかない。ビジネスとして成立するのであれば、政府などの支援金を待たずして優秀な才能が参入してくる。逆もしかりだ。それほど市場メカニズムは優れている。もちろん、カルテルや独占などの一部に政府の介入価値は認められる。ただ、それは制度づくりに多少の価値があるにすぎない。

話を今日の電力使用量抑制に戻そう。政府が各産業の稼働を主導したらどうなるだろう。たとえば、政府(や官僚)が、自動車産業と医療・建設の工場には優先的に稼働を認め、ゲーム産業やサービス業については週3日の休業を命じたらどうだろうか。一部の産業を貶めることで、全体の節電目標を達成しようとしたらどうだろうか。そのとき、「政府主導で節電目標を達成せよ」と主張していた人はどうするのだろうか。

「いや、違う。そうではなく、全産業がひとしく負担するような稼働休止を政府は主導すべきだ」と反論されるだろう。しかし、そのようなことはありえない。というのも、医療機関は優先的に電気を供給されることになるだろうし、そのことに反対の人たちはいないだろう。ということは、医療関係の商品やサービスに携わる業者は、おなじく優先的な処置になるだろう。福祉やライフラインも同じだろう。では、どこまでが「優先産業」でどこからが「非優先産業」なのか。この恣意的な判断が待ち構えている。「全産業がひとしく」稼動停止することはありえない。しかも、政府が主導するのであれば、その恣意的な判断を、政府と官僚に任せることになる。この反動性について自覚的な人が少ないことは驚くべきことだ。

・では「どうすればよいのか」について

では、政府主導ではない節電対策はどのように実現されるのだろうか。市場調整メカニズムによるだろう。具体的には、このようなものだ。

・産業用:契約電力量の80%までは、電気料金をこれまでと同等の料金水準とする。ただし、それを超える電力量については電気料金を5倍とする
・家庭用:350kwh/月までは、電気料金をこれまでと同等の料金水準とする。ただし、それを超えるぶんについては電気料金を1.25倍とする

このようなものだ。この「80%」とか「5倍」とか「350kwh/月」とか「1.25倍」とかに、さほど意味はない。肝要は、一定水準までの使用を認めた上で、それ以上の電気使用を望む人にとっては、電気料金がコストアップしてしまうことだ。電気をいくらでも使用する自由はある。ただし、過度に使用するためには電気料金の上昇を甘受せねばならない。

そうすれば、自然に調整メカニズムが働き、自発的に電気量使用が抑制されるだろう。もちろん、いかなる倍数を設定するかには議論があるだろう。5倍ではなく、3倍程度でも良いかもしれない。あるいは、350kwh/月ではなく、300kwh/月が適切かもしれない、など。その議論はあるだろう。しかし、繰り返すものの、重要な点は、政府が主導する計画経済の復活を望むのではなく、市場の調整機能を私たちが信じねばならないことだ。

これが経済学の重要なメッセージ「市場に任せよ」である。

ただし、ここにはもう一つの感情的な議論があるかもしれない。それは「東京電力が電気代を値上げするなど許せない」とする感情論である。先日もTwitterを見ていたら「あれだけ迷惑をかけた東電が料金をあげることは道義に反する」と書いている人がいた。「正義」「道義」を自ら掲げる人ほど怪しい人はいない。もちろん、そのような感情論もわかるけれど、だからといって政府主導の計画経済が良いことにはならない。それであれば、電気料金をあげることによって得た利益は震災被害者へ渡せと提案しても良いではないか。料金値上げが人びとの自発的な電力抑制につながるのであれば、それこそ望ましい。

「政府が主導せよ」。政府が、政府が……。と人びとはいう。しかし、政府を信じていなかったのは私たちのほうだったのではなかっただろうか。それは菅内閣の支持率にも表れている。自由とは誰かに任せることではない。自発的な行動を選ぶことであり、市場を信じることなのである。

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