・民主党政権を目の前に

これまでいくつかの国を旅してきました。ヨーロッパやアジアなどに行くたびに、日本のことなどほとんど現地では報じられていないということに気づきます。おそらく、多くの方も同じことを気づくでしょう。加えて、日本人が既成概念として持っているものがいかに間違っているか、あるいは物事の一片しか見ていなかったかを思い知らされます。

日本では悪玉として報じられている人が、現地では善玉になっている。たとえば、ポルポトは現地では一部でいまでもなお英雄視されていますし、スターリンなどの評価も同様です。こちらは、共産思想対資本主義思想、あるいは保守対革新という対立軸しか持ち得ないのに対し、現地ではさまざまな見方や事実があります。大袈裟ではなく、パラダイムが完全に逆転している例も枚挙に暇がありません。以前、インドで起きた民衆暴動は、「差別を守れ」というものをスローガンとしていました。書き間違いではありません。差別を撤廃するのではなく、差別を「守れ」という民衆のデモがありうるわけです。日本では、差別問題についての民衆運動、という報じられ方をしました。これをさらっと読むと、全然分からない。でも、現実は差別制度を緩やかにしようとした政府にたいして、民衆側が「そんなことするな。差別を温存せよ」という主張を繰り返したのです。ちなみに、このデモは焼身自殺まで引き起こしました。どの程度「本気」の抗議だったかがわかります。

差別を守れ、とは被差別者が、その被差別ゆえに来世には、位のあがった身分になれることを意味しています。一般に思われていることとは異なり、古来仏教ではある特定個人の魂が輪廻転生を繰り返す、という教えはありません。特定密教では、その個人固有のアートマンが、身体が死ぬたびに来世に置き換わる、という考えはあります。しかし、釈迦が説いた教えでは、この固有のアートマンが輪廻転生を繰り返すという教えはないのです。むしろ、釈迦のいう「業」=「カルマ」とは、「たまたまその人に降りかかったもの」というニュアンスが近いと私は考えます。前世とは関係なく、たまたま背負わざるをえなかった処遇。それを業と呼び、現世の行いしだいでは、その苦しみから逃れることができるはずだ、と釈迦は言いました。

ただし、カースト制においては、現世の身分は絶対であり、その身分の原罪を購い罪却することによって、来世の発展があるとします。そういうわけですから、差別を撤廃することは、むしろ来世の発展を約束しない愚挙ということになるわけです。差別があったほうがいい。そういう思想は、私たちにとってはありえません。しかし、飛行機で数時間飛んだだけの異国ではありうる。それが現実なのです。

現実は、月光仮面と悪者が闘っているわけではない。世の中はそんなに単純じゃなく、どうも、もっと複雑なものらしい。若い日の私はそう思いました。

ときは移って、現代の日本です。いまでは、二大政党制が叫ばれ、福祉と安心、人権、平等、などというフレーズが跋扈しています。民主党が政権をとったものの、私は国民と政治家の一貫性など、ほとんど信じてはいません。二大政党制も、人権も平等も、近年なって限られた国に浸潤した概念にすぎず、それは絶対的な価値があるかなど誰にもわからないからです。おそらく、時が経てば、その価値も変容せざるをえないでしょう。「数百年先まで通用する美しき国家理念を」という人がおり、その意気込みは評価できるとしても、現実的にはそのような理念はありえません。現代であっても同じ単語について、まったく異なる評価がありえます。さきほどのインドでの「差別を守れ」運動を思い出してください。それなのに、数百年先まである理念がそのままの意味で生き続けるなど、私にはとても可能だと思えないのです。

それほど難しい話ばかりするつもりはありません。たとえば、恋愛という概念はどうでしょうか。以前、昭和天皇が結婚する際に、ある新聞記者が宮内庁に「恋愛結婚ですね」と問うたことがありました。そのとき、宮内庁は必死になって取り消したのですが、それは上流階級の子女が「恋愛結婚などとんでもない」という価値観が存在していたからゆえだったのです。いまでは考えられないことでしょう。ほんのちょっと前までの日本では「お見合い結婚が当然、恋愛結婚などとんでもない」という価値観がほとんどでした。

現在では、その価値観が完全に逆転してしまっています。いまでは、お見合い結婚など、「あらら、相手が見つからなかったのね」という酷評すらありえるかもしれません。この逆転、すなわちパラダイムが変換するのに、わずかの時間しかかかっていないのです。加えていえば、女性から男性に告白する習慣が広がったのは、現在から40年ほど前にすぎず、それ以前は、女性は「選ばれる側」でしかありえませんでした。これが悪いことか良いことか、私はあえて判断しません。ただ、そのように思考の転換や常識の転換は頻繁に起きることだ、ということを述べておこうと思います。

2009年では、「恋愛力」などという言葉が生まれ、「結婚力」などという(笑)ものも能力として認められようとしているのです。まさに、疑うべきは常識であり、現在の価値観は「絶対ではない」という程度の良識は持っておきたいものですね。ちなみに、私の「調達力・購買力を身につける本」というタイトルは、当初「調達・購買の基礎を学ぶ本」というものでした。そこに「力」をつけたのは、担当編集者の「力」量といえるものです。もちろん、「調達力・購買力」というのも、一つのパラダイムを作ろうと試みたものでした。これがどれだけ広がるかはこれから見守るところです。

「調達力・購買力」の話になったので、もっと卑近な例をあげましょう。調達・購買の社内的地位についてです。わずか数年前まで、ある出版社に企画書を持っていったところ、「このテの刊行物が出ることはありえない」と言われ、その場で1ページも開いてくれませんでした。しかも、1社ではなく、複数社が同じ対応だったことは忘れることはできません。

そんな状況だったのに、今日に至っては、固有名詞は省きますが、同じ出版社の違う担当者からは「本を書いてください」というお願いが届くほどになっています。時の流れとはこういうことです。そのときそのときの基準は、絶対的なものではありません。サラリーマンの歴史は200年程度しかないのです。その200年しかないものにたいして「サラリーマンなんてこんなもんだ」と偉そうに言う人は信じないほうがいい。私はそう思います。ちなみに、人類の歴史は200万年ほどあります。日本にいたっては、サラリーマンは60年くらいの歴史しかありません。これからどんどん変わっていく可能性が高いものですし、わずか60年で固まってしまうと考えてしまうほうがヤバいでしょう。

以前、オタキングこと岡田斗司夫さんが、オタクの地位向上を目指す際に「オタクでもかっこいいんだ」という言い方をせずに、「オタクだからかっこいいんだ」という言い方を戦術として持っていた、という話を聞いたことがあります。オタクという言葉は中森明夫さんが80年代に造語として提唱して以来、どこか暗いイメージがありました。それを、「オタクだからかっこいいんだ」というパラダイムシフトを行ったわけです。いまでは「オタク」をホメ言葉として用いる人も多くなってきました。私もその一人です。思考や評価の逆転などすぐに起きます。あとは、それを意識して起こすかどうか、です。

以前、私は資材部というところに属しており、社内からのその部門にたいする評価はそりゃ酷いものでした。「何もできない資材部」というわけです。人員も、けっしてエリートコースの人がいるわけではなく、優れた仕事をしていたかというとそんなわけでもありませんでした。

そこで、私はためしにHTMLを覚えて、社内のイントラに毎週のように記事をアップしはじめることにしたのです。社内のイントラを使って良い、など誰も許可してくれていない状況でした。しかし、やってしまって「既成概念」を作り上げてしまえば、日本人は反対できないということをわかっていましたから、勝手に始めたのです。記事、といってもたいしたことはありません。自分が当時担当していた部品の最新リスト、あるいは自分が他部門と手がけたコスト低減実績、サプライヤーの情報……等々、バイヤーであれば誰でも持っているような情報ばかりです。それらを続々とアップし社内メールのフッターにURLをつけておくことにしました。「何か問い合わせたいことがあったら、まずここを見て下さい」とやったわけです。そのうち、会議の議事録や問い合わせのメモ、新製品の情報など範囲は拡大し、かつ私の業務感想のようなものも開示しはじめました。

今の私の著作を読んでいただけた方であれば、それらの量がどの程度膨大なものであったかは理解いただけるかもしれません(笑)。異常な量を書き進めて、それをずっと掲載し続けました。おそらく、若手は質ではなく量にこだわるべきであり、量は訓練なしに実現はできません。私は知らないうちに自分で量をこなす訓練をしていたというわけです。そこで、面白い変化が起きることになります。社内の設計者から、問い合わせはまずアイツにしろ、という風潮ができあがりました。私の担当製品かどうかなんて関係がありません。とにかく訊きたいことがあればアイツに訊いてみろ、ということになるわけです。それまで「資材部は役に立たない」という思考があったところを、「何か役に立つかもしれないから、アイツに問い合わせしてみよう」という転換が起こりました。

少なからぬバイヤーであれば、この程度の転換は起こしているのではないでしょうか。しかし、私はもう一歩足らないと思ったのです。すなわち、「役に立たない」から「役に立つ」だけではパラダイムの転換とまではいえない。どうせなら、「役に立つ」から「いてくれないと困る」にまで持っていかねばならない、と思ったのです。人を籠絡する手法は、「まずは簡単な仕事を請けたあとに、徐々にコアとなる業務を浸潤していく」ことが基本です。

たとえば、焼き鳥屋さんを専門で狙っている税理士さんがいます。その税理士さんは、焼き鳥屋の毎月の領収書を集めてエクセルでまとめる、というたった2万円にしかならない仕事をまず請け負うわけです。それをずっとやる。しかし、そのうち税金申告の時点になると、毎月の領収書処理だけではなく、申告の計算書類も手伝ってくれ、となるわけです。さらに、そこから節税対策のアドバイスをやり、調理器具導入時の減価償却対策などを伝授するようになり、焼き鳥屋はその税理士さん抜きにはやっていけなくなります。それはその税理士さんの典型的なビジネスモデルです。ささやかな仕事をまず受注し、そこからコアとなるところに入っていく。これは、繰り返しであるものの、人を籠絡する手法の基本です。

私の話に戻ります。私が何をやったかというと、笑われるくらい簡単なことでした。「議事録をとる」だけです。私は設計者に、「あなたは何も考えずに、会議に集中してください。私が議事録をとるから」といい、ホワイトボードに書いた後は「あとは社内イントラにアップロードしておきます」と伝えURLを送りました。そのうち、膨大なデータベースが出来上がっていったのです。そこにいけば、過去の会議録を見ることができる、ということは逆にいえば、そこを使わねば過去の議事録を見ることができないことと同義でしょう。そのときから私はサイト誘導をやっていたわけです。そして重要なのは、そこを誘導のあとは、訪問者にとって自分が「いてくれないと困る」にまで持っていくことでした。

アウトソーシングの怖いところは、以前は社内で実施していた仕事であっても、一度外に出してしまうと、もう面倒でその仕事を再度行うことができなくなることにあります。だけどそれは、アウトソーシングを発注する側からすれば「怖い」けれど、仕事を受注する側からいえば「歓迎すべきこと」になるわけです。そこで、私は設計者が「今はやっているけれど」「いったん手放すと、もう再びすることができない」仕事は何かと考えました。そこで考えたのが、「ゾーニング」です。難しいことではありません。

設計者に届く無数の売り込みを、まず私が窓口になります、とやったわけです。バカげた幼稚なこと、と思うでしょうか。サプライヤーとのやりとりを設計者が実施していることがほとんどではないですか。実際、私の部門では、資材部とは名ばかりで、サプライヤーとのやりとりや打ち合わせを設計者主体で行うことがほとんどでした。私はまず「設計者は設計に専念すべきでしょう。ヘンな売り込みや、買うつもりもないのに、ためしに見積もりを提示してもらったら、しつこく問い合わせがあることもあるでしょう。だから、まずは私を紹介してください。条件にあうもの、あるいは可能性があるところだけを連絡します。また、サプライヤーに言いにくいことがあれば、私が代わりにやります」と伝えました。「汚れ仕事さえ引き受けます」と。これだけなのです。しかし、どれほどの人が実践できていますか。多くのバイヤーが「仕様とか品質とか、そういう面倒なことは設計者に直接連絡してくれ」とサプライヤーにお願いしているところを私はたびたび見てきました。

繰り返し、このことを、たやすい、バカげた幼稚なことだと考える人もいるかもしれません。しかし、ほんとうにこれを実行するだけでいつの間にか知識が溜まり、いつの間にか本を出せるまでになってしまいました。おそらくこれを実践する副産物は次のようなものです。

・設計者の前段階ですべてのサプライヤーの窓口になるため、必然的に多くのサプライヤーと知り合う

・設計者に紹介するために、「どのようなサプライヤーが必要か」「優れたサプライヤーとは何か」「サプライヤーの財務状況はどのように把握すべきか」に自覚的にならざるを得ず、スキル構築に役立つ

・言いたいことも言えない設計者は意外に多く、頼りにされる(笑)

最後の一つは「(笑)」ではないかもしれません。良かれ悪かれ、バイヤーと設計者のつながりは、属人的なものにならざるを得ず、それを支えるのは「信頼」と「安心感」と「相互尊重」です。これを醸成せずにサプライヤーにたいしてのみ偉そうに言っても、なんだかなあ、という感じでしょう。そうやってパラダイムシフトを引き起こしていきました。

「役に立つ」から「いてくれないと困る」というパラダイムシフトは簡単に起きます。というのも、設計者も社内の他部門も、人間である以上できるだけ自分の仕事をラクにしてくれる人を潜在的に求めているからです。あとはそれにフィットするかどうか。これが問われているのです。それ以降、私は優秀なバイヤーたちの習性をいくつか見てきました。そこにあったのは、やはりある種の「過剰さ」と「厚かましさ」です。それは何か。その過剰さとは、社内のために自分が動いてやるという過剰さであり、その厚かましさとは、「俺を使ってくれたら役立つよ」と言ってしまう厚かましさです。

私がこの文書を書くきっかけは、ある読者の方から「資材部門の地位を向上させるのはどうすればよいか」というメールがあったとき、自分のことを思い出したからです。私は冒頭でパラダイムが容易に変化していくことを書きました。もし、現在の資材部の地位が低いのであれば、そのようなパラダイムが社内に蔓延しているというだけのことです。そのパラダイムは一変させることができます。「人権」という概念が、いつの間にか至高価値になったように。「恋愛」が若者の必須になってしまったように。

そして、私は著作を通じて常に個人を起点としたパラダイムシフトを描いてきました。もちろん、部門全体で変化することがふさわしいでしょう。しかし、残念ながら全体を一律に底上げしようとする手法はいつだって失敗するさまを見てきました。それよりも、一人の人間を起点としたほうが良いのではないか。たとえ個人主義といわれようが、それにより周囲が影響される可能性のほうがずっと高い。そう私は信じているのです。

私たちが運命論者ではなく、将来を形作っていくものだと信じているのであれば――。移り行くパラダイムを自ら操作するのも悪いもんじゃない。そう思うのです。

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