・バイヤー教育原論

若手の教育をいかに行うべきか。

このテーマがふたたび悩みのタネとなっています。それは調達・購買の領域でも同様です。どうやって新人バイヤーを育成してよいかわからない。これが多くの組織の悩みとなっています。これまでの主流は、単なるOJTでした。

数年前より、OJTへの批判がさまざまな方面から起きてきました。どういう背景でしょうか。それは、私が見るところ一つの論点に集約されます。「体系的な学習ができない」ということです。考えてみれば当たり前しょう。何歳か上の先輩と一緒に仕事をするわけです。日々の出来事――、ときに問題や、ときに不条理な要求など――、がそれほど体系的に起きるはずはありません。また、仕事の量や難易度にもバラつきがあるのは普通でしょう。OJTはそもそも体系的に学ぶ舞台装置ではありません。

ただ、調達・購買部門に求められる知識は年々高度化しているので「新人には体系化された研修を与えるべきだ」という議論は、理解できるものです。

しかし、と思います。私の主張は、それらの時代背景を理解しつつも、まったく逆のものです。私の主張は、「OJTなど体系化していないはずであり」「かつ、教育にはOJTでじゅうぶんだ」ということに集約できます。おっとこんなことを言ってしまって良いのでしょうか。良いのです。それでは、これからその理由について述べていきます。

・OJTは、意味がわからないからこそ、素晴らしい

OJTでは、「何を学ぶことができるか事前にわからない」という批判があります。しかし、まず知っておくべきは「何を学ぶか、事前に提示しないことにこそ意味がある」ということです。逆ではありません。教える側が体系的である必要はなく、学ぶ側がOJTのなかに体系を見出すことこそ重要なのです。

やや抽象的な議論になってしまうかもしれません。たとえば、母国語を考えてみましょう。子供が生まれます。そのとき「日本語を学ぶと、どんな良いことが起きるのか」と考えぬいて教える親はいません。出産と同時に、一家をスワヒリ語で統一して、子供をスワヒリ語使いにしようとする親はほとんどいないでしょう。日本語を学ぶこととは、「どんな目的があるのか?」「どんな利益があるのか?」「どんな良いことが起きるのか?」という疑問とはまったく無縁のことです。

それは、目的や利便性などを考えず、「ただ、それ自体のために学ぶ」という種類のものであり、それ以上の意味はありません。そして、重要なのは、学んだ後になって「ああ、日本語を学んだからこのように生活できているのだな」と自覚できるものなのです。つまり、意義や効用は、事後的にしか認識し得ません。なぜなら、それは「定量的に利便性を示すことはできないけれど」「とにかく、ごちゃごちゃ言わずに、学べ」というものだからです。

日本語も、子供同士のコミュニケーションも算数も、たとえば遊戯であってさえ、その利便性は事後的にしか認識できません。

最近は、どんな学習にも目的と利便性が必要とされるようになってきました。しかし、これは根本的な意味で誤謬を引き起こします。なぜなら、「どうしても必要なこと」は、ほとんどの場合、事後的にしかその価値を理解できるはずはないからです。だから、「これを学べば、どんないいことがあるんですか?」と先生に問う小学生は、まったく誤解をしているとしかいいようがありません。もし、国語や算数や社会や理科を学ぶことで、いかに意味や意義があるかを説明してくれる先生がいたとしたら、それは大嘘です。そんなこと先生にもわかるはずはありません。

・意味を最初から提示する教育はウソである

人の人生はさまざまですから、そりゃまったく役立たない知識もあるでしょう。でも、大半は、その学ぶ課程で得た「何か」が、きっと(繰り返しですが、これを認識できるのは事後的ですが)役にたちます。

先生の答えが「愉しいから、それだけの理由で学べ」というもの、あるいは「そんなの知るかよ」というものであれば、信頼してもいいでしょう。繰り返しますが、それら以外の、絶対的な価値を既定する意味など、存在するはずはないからです。

そして、もう一つ加えておきましょう。私は、OJTが体系的である必要はないといいました。また、学ぶ側がそのなかに体系を見出せばいいのだ、とも。これも解りにくいかもしれません。

繰り返し日本語の学習を考えてみましょう。子供に日本語を体系的に教えている人はほとんどいません。しかし、子供は、たいていの場合、その混沌のなかに秩序を見つけ、体系を学び取ります。教育に体系があるのではありません。学習者に体系を「見つけさせること」が大切なのです。

やや昔話をお伝えします。以前、私は電源装置を調達していました。ここでは趣旨ではないのでその説明は省きます。その際、ある師匠についていたのですが、その人は私が見る限りかなり矛盾の多い仕事をしていました。あるサプライヤーにはAといい、違うサプライヤーにはBと説明し、そこに整合性を見つけることは不可能だったのです。しかし、私は、その師匠がやっていることが間違っているとは思いませんでした。いや、そもそも疑うということ態度を欠いていたのです。

すると、私はその後、その師匠の行為は間違いではなく、意図的に違う情報を流すことで、交渉の際に優位に立っていることを学びました。条件を厳しくすることで有利な価格を入手したり、あるいはその逆の条件を提示することで、穴のある見積もりを入手したりすることで、サプライヤーごとのクセを察知し対応をしていたのです。

また、自己申告の「コスト低減額」の基準がバラバラのことがありました。あるコスト低減額は1回目の見積りを基準としたもの。あるコスト低減額は、前回調達コストを基準としたもの。その理由について訊きましたが、理由は教えてくれませんでした。しかし、その後私はコスト低減と一言でいっても、そこにはCA(コスト・アボイダンス)とCR(コスト・リダクション)という二種類があり、その使い分けをしていた、ということがわかったのです。

私は、師匠が絶対的に正しい、という確信から、その曖昧とした世界の中に体系を見つけ、それを仮説化し、理論化するに至りました。発言のなかの矛盾から、管理会計の手法を発見し、それを学習したこともあります。

・バイヤーはすべてから学ぶことができる

こう書くと、「私のその師匠は、ほんとうに間違ったことをやっていて、それを私があとで都合の良いように解釈したのではないか」という意見があるかもしれません。しかし、重要なことは、学習者に学習欲がある限り、どんな対象からも学ぶことができるということです。

私は日本語の学習の利点は、かならず事後にしか認識できないと述べました。まさに、それは業務学習においても同じことなのです。もし、師匠が間違っていたとしても、そのなかに体系を見つけることができます。そして、すべてに何らかの意味があると信じている人は、いかなる対象からも体系を学ぶことができるということでもあるのです。

この逆説は、なかなか信じてもらえないかもしれません。世の中には「絶対的に良い先生」と「絶対的に悪い先生」がいる、と人は信じたいものだからです。しかし、まったく同じ環境に置かれても、その雑然としたなかから体系を見出す学習者と、見出すことのできない学習者がいます。その差は、上記のとおりです。

人は、「何を学べるかわからない状況でこそ、より多くを学べる」という逆説のなかで生きています。私は、これまで成功したビジネスマンと会話を重ねてきました。その多くの方々に「一番勉強になった経験は何ですか?」と問い、答えを聞いた経験があります。面白かったのは、その答えのほとんどの経験が「振り返ってみると、役立っていることがわかる」というものだったのです。

繰り返します。ほんとうに重要な学習とは、その意味が事後的に認識できるものがほとんどです。だから、学習前に、教育者が「これによって、こんなことを学べる」と提示することは、多くの場合誤謬を引き起こします。OJTから、座学への移行は逆説的に学習者の「学び」を減じる結果となるはずです。

そして、OJTを実りあるものにするために、もっとも失念されていること。それは、学習者の、師匠への「無条件の尊敬」にほかなりません。疑わないこと。そして、その意味をなんとか知ろうとすること。

昨今のOJT議論にすっぽりとこの観点が抜け落ちていることは、もっとも注意すべきことです。

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