3月11日の15時前、東京・赤坂に向かう地下鉄千代田線。電車のなか。はじめて、車内で転ぶ人を見た。地下鉄が霞が関駅の直前で急停止したからだった。あのときの衝撃は忘れられない。地震によるものだと、すぐにアナウンスが入った。「地下鉄よりも安全なところはありません」だそうだ。そこから1時間、余震に何度も揺らされながら、私はじっと車内にいた。車内には不安とぶつけようのない苛立ちが瀰漫していた。

隣の女子大生が突然、電話で怒りだした。「歩けねえっていってるやろ、迎えに来いや」。誰と話しているのだろう。わからないが、自分の声が車内にどのような影響を与えるのかに、彼女は無防備すぎる。誰だって苛立ちのなかで、ただただ時間を過ごしているのだ。

「異常事態が起きた」とニュースは伝えていた。日本最大規模の地震が起きたようだ。

地上に出た私は、そこから30分歩き、赤坂に向かった。地下鉄で見た光景と異なり、信じられないほど、周囲は「普通」だった。ときは17時前、多くの人が帰路を急いでいる、という日常との違いはある。ただ、異常なほど「普通」なのだ。赤信号を無視する人はいない、整然と並び、歩き、人によってはコンビニの床に散乱した商品の収集をわざわざ手伝っている人までいる。

さらにはレストランで笑いながら食事をしている人すらいる。「どうなっているんだ?」私は思った。ラジオでは、引き続き東北から首都圏にいたるまで悲惨たる状況を伝えていた。そして同時に津波が各地を襲ったという。その一方で、「もう、こうなったらどうしようもないさ」と諦観を抱き、居酒屋に流れる人たちまでいた。「電車がないから帰れない。だから、居酒屋で夜を明かす」のだという。おそらく、どちらも現実であるには違いない。

私はオフィスをすぐに出て、帰宅することにした。六本木一丁目から、自宅まで40分。一の橋を過ぎたところでは、ホームレスのおばさんが、無意味にずっと笑っていた。不気味に、そして、まわりをずっと見ながら。彼女は地震の先に、いったい何を見ていたのだろう。

帰宅する直前の電気屋でテレビを見た私は、福島県の惨憺たる状況に嗚咽しそうになった。さらに福島原発も重大な問題が発生しているらしい。錯綜するニュース、そしてTwitter、やっとつながった電話からは両親の声が聞こえてきた。それにしても、東北にいる知人はどうなったのだろう。いまだに連絡がつかないままだ。

私はここから、携帯電話に対するTwitterの優位性や、日本原発行政や、「外国人から見て日本人は落ち着き払っておりましたねえ」という脳天気な日本人論を、繰り返そうとはしたくない。それらは、目の前の現状と比すれば、とても小さな論点のように私には思える。

ボランティア、募金、支援物資搬送……、被災者を救う多くの手段はある。ただし多数の人たちにとっては、つまり私たちは、ただただ、このような惨事の前にはなすすべもなく佇むことくらいしかできないのである(ちなみに、なすすべもなく、と書いたが支援が無意味というわけではない。私個人は今回の地震で、少なくない額を募金した)。

その無力感のなか、一つ思い出すことがある。

  *  *  *

2007年の新潟県中越沖地震のときのことだ。現場のバイヤーであった私たちは、納期調整に困難を極めていた。地震が起きるとバイヤーたちは取引先の安定供給確保のために奔走することは当然だ。震源地近くのサプライヤーのもとには連日連夜、全国各地のバイヤーから電話がかかってきていた。

バイヤー企業も単に納期フォローしていたわけではない。人的支援の一環で、トヨタ自動車をはじめとする企業たちが、一斉に人員を新潟に向けて投入していた。サプライヤーの工場作業員だけではなく、そこには全国各地からの「助け合い」の力が結集していたのである。

たとえば、トヨタ自動車から震災サプライヤーもとに派遣されたスタッフが手伝っていたのは、なにも自社生産分だけではない。他社向けの生産分も同様に支援を行っていた。そこには、「自社分」「他社分」という境界はなかった。ただただ、生産持続に向けて、全体の意識が一つになっていた。

とはいえ、現場は現場だ。バイヤーたちは、ひたすら納期フォローを繰り返していた。「あの部品はどうなった?」「遅れられると困る」「どうするともりだ」……人間は窮地になると醜い部分を出すものだろうか。言い争いがオフィスに響いていた。

すると、一人の異常に恐れられていたマネージャーがいた。担当者は、部材のストップについて怒鳴られるものだと覚悟していた。マネージャーは納期フォローしていたバイヤーの電話を取り上げた。そして、すぐさま電話を切った。「お前なあ、先方は家族がいるのに、生産を継続してくれているんだぞ」と言った。「相手のことを考えろ」と。

私は救われた気がした。なんとなく、ではあるものの。

マネージャーというものには二種類あるらしい。そのあと、担当者と話す限り、二種類の対応があったらしい。

(1)部材の確保のみを考えていたマネージャー
(2)人の安全のみを考えていたマネージャー

私はこの二種類のうち、どちらが倫理的に優れているかといいたいわけではない。ただし、訴求力を考えるに、後者のほうに優位性があったように思えてならない。

  *  *  *

私は、「なすすべもなく」と言った。私たちにできることは、せいぜい、目の前の事象をくぐり抜けるために、ささやかながら周囲を励ましていくことだけだろう。

1.ネガティブなことではなく、ポジティブなことを

緊急事態が起きると、常に各社・政府の対応を批判しようとする人がいる。彼らはぎりぎりの状況において、ジャッジを繰り返している。東京電力の対応や政府の会見にまずいところがあったかもしれない。ただし、それを批判することにパワーを使ってはならない。ネガティブな対応は誰だってできる。しかし、ネガティブなことだけに力を注いでも、それは何ももたらすことはない。

2.専門家への信頼を

原発報道について、「情報隠蔽が起きている」と述べている人がいる。専門家たちは、同じく少ない情報のなかから、有益なアドバイスを抽出しようとしている。その努力を認めなければ、誰だってアドバイスを発信しないだろう。平時に専門家を批判しても良い。だが、急時は専門家たちの叡智を信頼しようではないか。私個人的な経験でも(私は原子力事業に関わっていた)、さほど壊滅的な事態になるとは思えない。また、緊急時に専門家を信頼することができなければ、何を頼りにするのだろう。

3.柔軟さへの寛容を

東京電力の措置について批判が集まっている。計画停電が実行されなかっただとか、エリアがわからないだとか。もちろん、同社に改善の余地はあっただろう。しかし、緊急時に対応が柔軟になるのは、当然のことである。例外処理やルール外の行為も多く見られるだろう。ただし、それを寛容に受け入れるしか私たちにはない。これは東京電力の対応だけを申し上げたいのではない。これから続く、多くの例外処置に対して、私たちは寛容にならなければならないのである。

  *  *  *

そして、今日もまた日常がはじまった。多くの人たちは、哀しみ、そして落胆し、見えない不安に追われている。しかし、被災者のことを祈るくらいしか私たちにはできない。

そして、私たちは被災地以外の人たちが変わらぬ日常を送っていることを、同じく非難することはできない。それぞれには、それぞれの人生と生活があり、ただただそれを繰り返すしかないのである。

「自分の世界が終わる日」、それは突然やってくるかもしれない。その自覚はあれども、私たちは終わりなき日常をやり過ごしていくほかない。

中森明夫さんの名作「東京トンガリキッズ」に、こんな一文がある。

「世界の終わる日……世界の終わる日、僕たちは、覚えたばかりの新しいステップの
第一歩を踏み出すだろう。世界の終わる日、僕たちは、チケットぴあで芝浦インクの
来月のライブを予約するだろう。世界の終わる日、僕たちは、次のパーゲンの最初の
日の日付けにしるしをつけるだろう。世界の終わる日、僕たちは、おろしたてのアデ
ィダスからゆっくりと靴ひもを抜き取るだろう。世界の終わる目、僕たちは『空色帽
子の日』を聞きながら抱きあって眠るだろう……。」

「神様などいない」ことを私たちは悟った。ただ、私たちはその悟りとは乖離するかのように、「祈る」ことを止めることはできないのだろう。それが残された私たちができる一つのことだからだ。

私たちは祈ることくらいしかできない。惨状の前に、無力と絶望を噛み締めるしかないのである。

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