つかこうへいさんがお亡くなりになりました。62歳、肺がんだったようです。

私は知人がつかこうへい劇団の一員だったものですから、折にふれてつかさんの演劇を見に行く機会がありました。また、その知人も大学からの知り合いですから、つかさんの「天才ぶり」についても多く聞かされています。

その天才も--、という言い方はふさわしくないのですがーー、やっぱり「死ぬ」のですよね。62歳といえば、ものすごく若い。大学生時代から活躍なさっていたので、期間は長かった。それでも、たった62歳で、という感は拭いきれません。まるで、活躍期間が長かったことを調整するかのような短命でした。

ちなみに、松本清張のデビューはなんと41歳です。そこから松本清張は必死で小説を書き続け、82歳までそのペースは衰えることはありませんでした。

いろいろな人生があるものですね。そうまとめてしまうことは野暮ではありますが。

さて、つかさんは間接的とはいえ、あるいは松本清張は残った資料を確認しただけとはいえ、私が知る限り彼ら「天才」の共通点があります。それは「莫大な努力を惜しまなかった人」ということです。

知人から、つかさんが膨大なボツ原稿を書いている、しかも、自分の背丈くらいの原稿量だった、ということを聞いたときは驚きました。つかさんが表に出している作品など、その膨大なボツ原稿から残滓のように掬いとったひとかけらでしかなかったのです。松本清張も膨大な資料を収集し、かつ文章表現の向上に努め、試行錯誤をずっとずっと繰り返してきた人でした。

ある意味「凡人」だったのですね。これは批判ではありません。誰だって「凡人」であったところ、ほんとうの「凡人」と違うのは、極端なほどの努力で「天才」と呼ばれるレベルにまで引き上げていったという点です。

私は業界のなかで「風雲児」「天才」と呼ばれる人とお話しする機会があります。その際に、多く言われる話は、「どんなことでも1万時間訓練したら、周りからは『天才だ』と誤解されるようになる」ということです。それは誤解なのでしょうか。わかりません。誤解ではなく、ほんとうに実力がつくはずです。自分自身からすれば、まだまだだと思っている。だから努力は止めない。しかし、その時点で圧倒的な実力が備わってしまうので、周囲からは「天才だ」といわれる。そういうことだと思うのです。

そして、と私は思います。1万時間やれば誰だって天才になれる、という話は希望の持てる話ではないかと。どんなに天才だと思われている人だって、最低それくらいの努力はしているのだ、と知ることは(特に)若手にとっては有意義な話ではないか。

何かのプロになりたいとしても、この1万時間論は有効です。必死に1万時間を費やす。1年のうち200日をそれに費やすとしましょう。一日10時間を訓練すれば、年間で2000時間です。それなら5年でプロ、あるいは天才になれるということです。もちろん、5時間しか費やさなければ、10年はかかります。

この1万時間をいかに捻出するかがキーなのですね。もちろん、すぐに効果があらわれるものではありません。ゆっくりと、でも、たしかな効果が数年後にあらわれるものなのです。

つかさんも、そして松本清張も、1万時間はクリアしていた。しかも、1万時間のみならず、それ以上の努力を日々続けていた。これが、彼らを「天才」と言わしめた「カンタンな」方法だったわけです。

つかさんはガン治療のあいだいにも、病院から電話で舞台稽古の指示を出していた、といいます。それはもちろん、努力、ということではないかもしれません。しかし、何かを創りあげる時に必要な、執念にも似た気迫が伝わってきます。努力を重ね、そして執念をもって仕事に取り組むこと。こんなカンタンなことをやればよいのですね。

私は上の世代に、若干の羨望を感じるときがあります。それは、このような愚直で単純なことを、ずっとやり続けることのできる、ある種の「素直さ」と「徹底さ」に対してです。

また一人、今日も愚直な天才が逝ってしまった。

つかさん、おやすみなさい。 

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