差別を、してはいけないのでしょうか。もちろん、答えは現代では「してはいけない」ということに決まっています。しかし、その答えがほんとうか、と深く考えてみることは無益でしょうか。

今回は増刊号です。ですから、調達・購買の理論や知識の世界を少しだけ離れて、「調達・購買と差別」という内容を論じてみたいと思います。

私は12冊もの本を出版しており、このメルマガの読者の方ならば、いくつか買っていただけているはずです。私の本をお読みになっている方ならば、「ああ、何やら好き勝手に書いているな」と思われるかもしれません。しかし、それほど自由に書けるわけではないのです。

たとえば、女性差別的な記述はほぼすべて削除されます。もちろん、私は女性差別者ではありません。些細なことも、女性蔑視だとみなされ、削除されてしまうのです。

「字があまり上手くない女性に、違和感を抱く男性もいます」と書いたことがあります。私は悪筆ですから、字がヘタな女性がいたとしても、何ら違和を感じることはありません。あくまで、男性でそのような感情を抱く人がいるという事実を書いただけです。しかし、これも「反発する女性がいるだろう」ということで削除せざるを得ませんでした。

また、「営業マン」という言葉も議論の対象になります。営業をやっている人は、事実として男性が多いのだから、「営業マン」という言葉は汎用的でしょう。しかし、それでも「女性差別だ」として「営業パーソン」か「セールスパーソン」に変更させられそうになりました。数年前のことです。それはやりすぎで、逆におかしい、と私が執拗に反対したことで、「営業マン」という表現が許されました。

しかし、自己の意見を持たない著者であれば、「営業パーソン」か「セールスパーソン」に変更していたでしょう。恐ろしいことです。

さて、このようなエピソードをお話した後に述べてみたいことは、三つあります。

差別を撤廃しようとする際に、形式ではなく精神を罰しようとする人たちがいるが、それは正しいのか。

人は誰しも差別されるべきではない、という主張の根拠となる「基本的人権」とは何か

調達・購買に携わる人間として差別をいかに考えればよいのか

それぞれお話していきましょう。

まずは1からです。最近、差別を撤廃しようとする人の中で「言葉遣いを訂正すれば良いというものではない。そのような差別的な言葉を使おうとする精神こそ罰せられるべきだ」という人がいます。

女性差別、あるいは弱者差別を意図する用語を使ってしまう人がいるとき、言葉遣いを修正させるだけではなく、そのような用語を使ってしまうその人の根性こそを叩き直すべきだ、というわけです。

私はここにどうしても「危うさ」を感じずにはいられません。もちろん、形式よりも精神こそを問題にしたいという気持ちはわかります。しかし、たとえ差別的な思想を持っている人がいたとしても、そのような思想を持つことくらいの「自由」は、やはり確保するべきだ、と信じるからです。

もし私を差別しようとする人がいても、私はその思想を抱く権利までは規制しません。せめてこちらの気持ちを害してはほしくないけれど、憲法で思想・良心の自由を謳っている以上は、どのような過激なものであっても、それを抱く程度は、どんなことがあっても守っておくのが義務だと思うのです。だから、まだ言葉遣いという形式だけを規制するほうがいい。

また、憲法という話しをしました。ここで2につながります。人は誰であっても差別されるべきではない、という主張の根拠となる「基本的人権」とは何なのでしょうか。

ここで一つ重要な指摘をしておかねばなりません。よく、人々は「あの人から、私の人権を無視された」とか「私にだって人権があるんですからね!」と言うことがあります。この手の発言は、間違っているのです。怒らないで聞いてください。理論的に、そのような発言は正しくないのです。

なぜでしょうか。基本的人権を謳った日本国憲法があります。この憲法とは、そもそもその原則として、「憲法が、そのときそのときの国家にたいして、国民の基本的人権を保障せよ」と命じていることだからです。

どういうことだかわかりますか? 憲法は、「国家」の暴走をくい止めるために、どんなことがあっても国民の基本的人権だけは保障しなさいよ、と言っているのです。だから、たとえば妻が夫に対して「私の人権を無視しないでよ」という発言は、意味が生じません。原理的には夫は妻の人権を保障する立場にはそもそもないのです。夫であれ、妻であれ、その人権を保障するのは国家でしかなく、国民どうしのあいだで人権なるものを保障するなどということは、そもそもありません。

そう考えると、「人権」という言葉が、誤って使われていることにお気づきでしょう。人権とは対国家で初めて意味を持つものですから、かなり多くのニュースなどで誤用されているわけです。基本的人権の根本的意味は、法学部出身の方(でも、最近はこのような基本的概念すらご存じない人もいらっしゃいますが)ならばご存知かもしれません。ただ、あえて申し上げました。

そのような議論の流れのまま3にいきましょう。では、この「差別論」「基本的人権論」を、どのように調達・購買につなげていくのでしょうか。

CSR調達というものがあります。これは企業の調達・購買行為において社会的な責任をまっとうしていくというものです。定義がはっきりしないので、企業によってまちまちですが、社会への貢献を謳っているものが多い。かなりの企業がCSR調達の宣言のようなものをホームページに掲載しています。

そのなかで「基本的人権の尊重」というフレーズがよくあるのですよね。社内の誰かがチェックしなかったのでしょうか。尊重とは国家でない限りできませんからね。みなさんの会社にはこのようなフレーズはないでしょうか。

しかし、私はこのような原理的な間違いや、些細なあら探しをしたいわけではありません。もし「基本的人権」という言葉の使い方を間違っているとしても、「他者のことを尊重しましょうよ」という程度の意味としては使ってもいいのではないか。そのように感じる人もいらっしゃるでしょう。厳密な意味では間違っているかもしれないけれど、「基本的人権なる精神を尊重することは意味がある」と思う人もいるはずです。

そして、それは正しい、と私は思います。

なぜか。

たとえその用語の使い方が間違っていたとしても、その誤用が多数派になってしまった以上は、その多数派の意見を前提として振舞う以外にはないからです。「世の中のうち、一人だけが正常で、その他多数が狂人だ」ということはありえません。「狂人」という定義は、極限的なマイノリティということであり、「正常」とはマジョリティということなのです。これは哀しいことかもしれません。しかし、それが定義上の正解なのです。

ここでややクールで悲観主義的な結論を申し上げねばなりません。CSR調達における、「差別の撤廃」や「基本的人権の尊重」というフレーズが、いかに原理的に間違っていたとしても、それを疑わない方が良い、ということです。社会がある方向を絶対善として進むとき、それに異議を申し立てても、多くの場合は徒労に終ります。

原理的に間違っていれば、そのブームはいつか終るはずです。原理的にその正しさをしっかりと見極め、そのうえで「あえて」ブームに乗っておき、その限界が見えたときに、そっとブームから降りること。これが処世術と批判されるかもしれませんが、正しい戦術なのです。

各社のCSR調達についての宣言書には、「差別」や「基本的人権」以外にも、多くの原理的間違いが散見されます。ただ、「差別」や「基本的人権」という、誰もが絶対善として疑いもしないことに、あえて根源的意味を申し上げました。そして、「しかしながら」、それに乗っかるしかないことも。

「みんなの意見は案外正しい」と言います。それは、原理的ではなく、抗えないという意味で、哀しいことながら真実だったのです。

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